18-09-25: 「治教」というコトバ
近代の神道を論じるときに焦点になることの多い「治教」というコトバについて、ずいぶん前から気になっている。
「治教」は「宣布大教詔」に出てくる語である。羽賀祥二が指摘しているように、島地黙雷は1874年(明治7)、島地黙雷「開教ノ私言ヲ読ム」の中で、この「治教」を「宗教」に対置されるものとして理解している。
ところで、近世までの文献でこの「治教」が出てくるものとして思いつくのは(実のところ、漢和辞典を複数ひっくり返して行きあたったのだが)朱熹『大学章句』の序である。このテキストに出てくる「治教」は、実は「治教」という単語なのではなく、政治や統治を示す「治」と教化の意味の「教」の二語を併記した「治」と「教」である。いくつかの注釈をみてみたが、この点について特に争いはなさそうである。
明治3年1月3日の「大教宣布詔」で「治教」という文字が示された時点で、人々はこれをどう理解したのであろうか。近世以来のふつうの朱子学の常識がある人であれば、「治と教」と解釈したと考えることのほうが無理がないような気がする。となると、後の人々が、1874年段階での黙雷の(新)解釈を前年の「大教宣布詔」の〈意味〉にまで遡行させてしまっているのではないか、とさえ思えてくる。いったい「治教」はいつから一単語として理解されたのだろう。
いずれちゃんとした論文の一部で触れることがあるかなと思って、棚にしまっておいたのだが、この話題を含む論文の構想が今後もしばらくできそうなので、ここで小さなハナシとして記しておきたい。
すでにどこかで明らかにされていることなのかもしれない。とすれば、自らの不明を恥じるほかない。